« 2007年8月 | トップページ | 2007年10月 »

2007年9月

2007年9月24日 (月)

デモクラシー・ファンドとは?

私たちが実現を目指す「デモクラシー・ファンド」について、Q&A形式でご紹介します。

●デモクラシー・ファンドとは一体なんのことですか?

社会的責任投資(SRI)の一種で、エコロジー・ファンドが自然環境保護を志向するように、デモクラシーを志向するファンドです。

●何のデモクラシーを志向するのでしょうか?

投資対象として企業を想定しているので、直接的には企業組織のデモクラシーです。現代は、多くの人たちが企業で働いているわけですから、これは社会全体のデモクラシーの進展につながると考えています。

●企業組織のデモクラシーとはどんなものでしょう?

デモクラシーを政治の民主主義制度のように考える必要はありません。権限委譲やエンパワーメント(どちらも組織の中で現場に近い人たちに意思決定を分散させる手法)もデモクラシーの一形態です。私たちは、従業員の経営への参加の度合いや、組織の権限の分散度などの「程度」の問題として捉えています。そのほかに、上場企業の場合には株主に占める個人(年金基金を含む)の割合の高さのような、ガバナンスの面も尺度に入れるべきではないかという議論もしています。

●企業でデモクラシーを進めてもうまくいかないのでは?

必ずしもそうではないでしょう。現にデモクラシーを標榜して成功しているセムコ社(ブラジル)のような会社もあります。基本的には、多くの企業で最も重要な資源である「人材」の潜在的な能力を引き出すことで、高いパフォーマンスを生み出すことができると考えています。もっとも、それほど単純でないのも確かですが。

●うまくいくためのポイントは?

働き方の自由度、メンバーの多様性、価値の共有、情報の共有、財務知識などの教育などが必要だと考えています。とくに価値の共有は欠かせませんが、これを具体的に示すのは今後の課題です。

●なぜ、ファンドなのですか?

外部から影響を与えていく手段としてファンドに目をつけました。企業組織のデモクラシーは法律で強制するようなものではないでしょう。デモクラシーが進展しても、業績が悪化してしまったら元も子もありません。ファンドであれば、リターンを求めなくてはならないので、業績に貢献するデモクラシーのあり方を見つけ出すインセンティブが働きます。

●ということは、高いリターンが期待できるのでしょうか?

私たちはそういう仮説を持っています。しかし、実証されてはいません。その意味でも、デモクラシー・ファンドは単なる高利回りファンドを目指すのではなく、社会的責任投資の一つだと捉えるべきだと思っています。それが結果的に、相対的に高いパフォーマンスを示す(可能性がある)というのは、エコ・ファンドなどと同様です。

●いつ実現するのでしょう?

1年前に研究会を始めたときは「2年後」を目標にしていましたが、もう1年経ってしまいました。必ずしも私たち自身がファンドを運用するところまで担うつもりはないので、趣旨に賛同してくれるパートナーが見つかれば、意外に早く実現するかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月13日 (木)

働くおばあちゃん95才

 毎年、北海道に帰省するたびに街がくたびれていくことに気がつく。
産業が下火になり、取り残されたようにお年寄りばかりが増えていき、どことなく活気がない。
こういった現象は私のふるさとばかりではなく、どこの地方でも起こっていることだろう。

徳島県上勝町。

この町も20年前までは過疎と高齢化と沈滞した農業とに苦しんでいたそうだ。
そして、20年後の今も高齢化の状態には変わりがない。
変わったのはこの街の活気。
お年寄りが嬉々として仕事にいそしんでいるらしい。
最高齢はなんと95才である。

上勝町は料亭などに料理に添える葉っぱや花などの「つまもの」を出荷している。
ゼロから開拓した「つまもの」市場の8割のシェアをしめ、320種類もの「つまもの」を平均年齢70歳のおじいちゃんおばあちゃんが体も頭もフル回転させて出荷しているのだそうだ。
中には年収1000万円を超える方もいらっしゃるらしい。

先日、この「つまもの」ビジネスの仕掛け人の横石知二さんと糸井重里さんの対談を聞きに行った。
あまりにもたくさんの成功要因があるためすべてを紹介することは難しいが、その中でデモクラシーの視点で印象的だったのが、「お年寄りが社員として雇用されているのではなく、全員個人事業主として独立採算制をとっていること」だ。
「そうでなくては多分これほどの成功は収めなかったであろう」というのが、横石さんの意見である。

まず、個人事業主であることの利点は、やったらやっただけ自分の利益となることである。
出荷率や売上げのランキングが毎日更新され、なんとお年寄りが毎日それをパソコンでチェックしては、ライバルを見つけて競争しているという。
「今日はあの人に勝った、負けたと思うたりする。それがよう似たレベルの人とだったら、自分の張り合いになるけんな。」と針木ツネコさんはいう。
その競争心があらたな工夫を生み出す原動力になる。

例えば背の高い木は平地に植えずガケ地に植えれば山の上に上るだけで簡単に収穫ができる。
わざと日のあまりあたらないところに苗を植えて、出荷の時期を長く確保する。

などなど枚挙に暇がないほどの知恵だ。

思いついたらすぐ行動。だれに許可を得る必要もないのだ。
そして、それが年収という結果に結びつき、いきがいに結びつき、健康に結びつく。
とうとう、老人ホームが町から消えてしまったそうである。
徳島県で老人率が一番高い町なのにも関わらず、高齢化に付随する諸問題、医療や介護が消えてしまったのだ。

また、成功や経済力から生み出される自信から当事者意識やコミットメントが生まれる。

あるおばあちゃんは、農林水産省の人が視察に来たとき、 「今度、シラクさんが来られるみたいですけど、晩餐会はやらないでしょうか。もしやるんでしたら、ぜひうちの「彩」をつこうてください。」 とおっしゃったそうだ。
自分の仕事やお金に責任を持つとそこから地続きで地域や国、世界にも興味がでてくるものだ。
20年前までは助成金をもらって国に面倒をみてもらうことだけを考えていた人々だ。
農業は構造不況だと人のせいにしていた人々が、自分の人生や社会にまで責任をもつように変わったのだ。

もちろん、これは個人事業主だからこうなったのではなく、自腹を切ってマーケティングに奔走した横石さんの力があってのことだろう。
しかし、横石さんがこれを自分の会社の事業として、お年寄りたちを雇用する形で行っていたら、これほどお年寄りたちがこの事業を自分たちのこととして考えられていただろうか?
おばあちゃんたちが繁忙期には夜中の2、3時まで出荷作業をする。
そしてそれに誇りをもって嬉々としている。
こんなふうにはならなかったに違いない。

すべての会社が社員の雇用をやめて個人事業主として契約するようにしようという話をしようというわけではない。
個人事業主にはそれなりのデメリットもある。
例えば、経理といった間接的なコストが余分にかかったり、みんなを同じ方に向かせることが難しい。
たまたま上勝町には横石さんというビジョンを示せる人がいたからうまくいっているのだ。

むしろ、一つの企業としてのよさを生かしつつ、こんな風に人々にいきいきと働いてもらうにはどうしたらいいのかを考えるほうが早道かもしれない。

どれだけ透明で納得性のある報酬制度が作れるか。
どんな風にすれば現場がどんどん改善する権限の委譲ができるのか。
どのようにすれば全体が底上げされるような健全な競争が生まれるのか。

雇用される人々が自律的にいきいきと働くためにはどのような仕組みが必要なのかというヒントがこの話にはつまっているように思うのだ。

参考;横石知二著「そうだ、葉っぱを売ろう!」ソフトバンククリエイティブ 定価1500円

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月10日 (月)

戦わない

9月10日は世界自殺予防デーなのだそうだ。

日本では、平成10年以来9年連続で年間3万人を超える自殺者数と発表されている。
大きさがぴんとこなかったので、交通事故の死亡者数を調べてみた。
平成18年の死亡者数 約6300人。
交通事故でなくなる方の5倍の方が自ら死を選ばれるというのはいかにも残念だ。

メンタルヘルスという言葉が定着して久しい。
過労死、過労自殺というものを考えるとき、自己を実現する場としての職場というものの機能が少しおかしくなってしまっているのかと思う。 競争や利益の追求をするときにハードな労働は当たり前で、そこについてこれないものは弱者であると考えることは果たして日本という社会を本当に強くするのだろうか?

そんな疑問にヒントを与えてくれるのが、浜口隆則著「戦わない経営」だ。

「自分の生まれてきた意味を知っている人は強い。
 たくさんの人が失敗してしまう中で
 あっさりと成功してしまう人がいるのは
 自分の居場所を知っているから。

 自分の居場所というのは社会から与えられている。
 だからその居場所を見つけられた人には責任がある。
 使命ができる。
 それがミッション。」

戦わない経営とは、戦わないというよりも、戦う必要のないポジションを探そうというスタイルの経営だ。

これは経営にだけいえるのではなく個々人の働き方にもいえるのではないかと思う。自分がもっとも活かされる場所でもっとも活かされる働き方をする。労働量の多寡にかかわらずストレスもずいぶん緩和するのではないかと思う。

そして、その個々がもっとも活かされる場を提供するものが会社であることができれば、会社という社会も多様で耐性の強いものになるように思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 7日 (金)

5人の客に4個のパン

 時折、残念な接客にぶつかることがある。

 友人達と、あるイタリアレストランでランチを食べたときのことだ。
女性5人のランチで、ランチコース5人分では少し量が多そうだから、コース4人前を5人でシェアすることにした。

料理と一緒に運ばれてきたバスケットの中には、パンが4つしかない。
4人前を頼んだのだから仕方がないかと、

「追加でもう一つパンをいただけませんか?」と頼むと「できません。」という。

「それでは、パンを半分に切っていただけませんか?」と頼むと「それもできません」という。

少し不満に思いつつも仕方がないかと料理を食べて、あらかたパンを食べ終わったときのことだ。
「パンのおかわりいかがですか?」とパンのおかわりをもってくるではないか。
パンのおかわりはできるが、最初に頼んだのは4人分だからそれを食べ終わるまでパンのおかわりができないというのが先方の言い分らしい。

「本当は4人前なのでパン4つなのですが、今回はサービスでもう一つお付けしますね。」

と対応してくれればその店のファンになったと思う。
ちょっとした対応でファンが敵になってしまうから商売はむずかしい。

 そのウェーター氏が普段からそんな風に気が利かない人間だとは思えない。おそらくはマニュアルを破ることで後で問題になるのが面倒なのだろう。お客さんを見ずにマニュアルばかりをみるというのは、この店に限らずいろいろな場面でぶつかることだ。

 マニュアルに文句をつけるつもりはない。

マニュアルというのは、誰でも一定のレベルのサービス(業務、商品)をこなせるようにする為のものなのだから社員教育には欠かせないものだと思う。

問題なのはマニュアルが作られた精神が語られず、その精神に基づいて一人ひとりの社員に自分の頭で判断させる習慣がないことだ。

先の例で言えば、例えば1人前を5人でシェアしてパンを大量におかわりをされては、原価割れしてしまう。だから人数分のパンしかださないということがマニュアルの意図だろう。
その意図に反しさえしなければ、パンを余分に1つ配ったからといって何の問題もない。
お客さんにとって心地よいサービスになるように、お店側が損しない程度のおまけを社員の判断でできるのがいちばんいいのだ。
その為には、判断の材料(知識)を身につけられるような土壌(風土)を作っていけばいい。

その土壌がデモクラシーなのだ。

マネジメントのデモクラシーは、単に従業員の満足をあげる為だけではなく、顧客サービスの向上やその結果としての業績の向上の為にも役立つものだと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 1日 (土)

フィールドワークで感じた住民自治

 地方分権一括法施行以来、団体自治とともに住民自治の重要性が指摘され、住民投票や審議会への参加などを通して住民による「自治意識」の充実がはかられようとしています。

 日本の地方自治は、当たり前のことですが二元代表性によって、民意の反映が担保されています。
しかしながら、行政主導の政策決定と、地方議会の空洞化により本来代表制民主主義によってチェックされなくてはいけない、政策決定が素通りになってしまっている状態が続いています。

 私自身、そうした状況に疑問を感じ住民自治を充実させるためには、どのようにしたらよいのかを住民投票条例や市民参加の場を通して考えてきました。
しかし、毎回「住民自治や参加が達成された状態とは何か」という事や、そもそも「住民自治・参加とは何か」といった問いに悩まされていました。

 

 今年の夏、石川県七尾市へ知人を介してフィールドワークを行い、「住民自治」とは何かについて再考することができました。

 石川県七尾市は、平成16年(2004年)10月1日、(旧)七尾市、田鶴浜町、中島町、能登島町の1市3町が合併した合併市です。
 多くの地域では、合併をすると、行政区が広くなるため行政サービスが低下し、その低下した分の行政サービスをどのように補填していくのかという問題を抱えています。

 そうした中で、石川県七尾市の一部である高階(たかしな)という地域では、公民館を中心に非常に興味深い取り組みがなされていました。

高階地域が共有しているテーマは「高階で自立していく」ということです。
高階地域は、「元高階町」といったくくりではなく、いくつかの村が集まる、まさに「昔の村落」で構成されている地域です。

その為、もとより「高階地域」で財源を持っているわけでもありませんし、支所があるわけでもありません。が、高階地域では公民館を拠点にした住民自治が行われていました。

行政からお金を貰うことを目的としているわけでもなく、自分たちの持つ資源で、菜の花を栽培や、「高階一円隊」という竹筒の募金箱をつくり、自分たちの地域を自分たちで守っていこう、自分たちでやっていけるようにしようという試みを行っていました。
 まさにこれが住民自治の原点なのだと思わされる素晴らしい事例だと感じました。

 都心部に近い地域では、新住民と旧住民の間に様々な差があるので住民自治といったときにも、どうやって巻き込んでいこうか、そこに対して行政は何ができるのかという議論が多いように思います。
私の思考形成も、そうした「都市型住民自治」の下に育ってきました。

 しかし、元々村落を持っている地域では行政がわざわざ住民自治の部分に介入する必要がないのです。
 参加といえば○○、自治といえば○○といったようなものではなく、自分たちの地域では
どういった自治の形が必要なのかということを、それぞれで考えなくては意味がありません。
地域の持つ性格によって最適な自治の形は異なるからです。

頭では分かっていても、自分たちで自分たちの自治を考えるというのは、中々難しいことです。

5年、10年の話ではなく30年、50年先に自分たちの子どもにどのように町をつないでいけるのか。

そのように考えたときの住民自治というのは、高階地域のように「自立」を真剣に考えている地域が強いのだろうなと感じました。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年8月 | トップページ | 2007年10月 »